目の見えない人は世界をどう見ているのか

目の見えない人は世界をどう見ているのか

【タイトル】

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤亜紗, 光文社, 2015

【テーマ】

「視覚」を取り除いたときに身体や世界の捉え方がどのように変化するのかを、視覚障害者の空間認識、感覚・体の使い方、言葉、ユーモアから分析し、「見る」ことそのものを問い直す新しい身体論

【なぜこの本を読んだか】

普段あまり立ち寄らない小さな書店で偶然見つけた。よしたけしんすけさんの絵がとてもかわいかったので手に取り、まえがきの部分を読んで「読みやすい文章だな、おもしろそうだな」と思った。これも出会いだと思い、読んでみることにした。

【学んだこと】

①視点を持たないからこその自由な世界把握

  • 見えない人には「視点」がない
  • だからこそ自分の立っている位置に縛られず、土地を俯瞰的に捉えたり、月を実際そうであるように球体として思い浮かべたりできる
  • 物理的には同じ空間、同じ物でも、見える人と見えない人ではまったく異なる意味を見出している

②ソーシャル・ビューという新しい美術鑑賞のかたち

  • ソーシャル・ビューは、見える人が見えない人に解説する鑑賞法ではない
  • 目の前にある客観的な情報と、その人にしかわからない思ったことや印象、思い出した経験といった主観的な意味を言葉にして共有する
  • 複数人で意見を出し合いながら作品の解釈を探っていく、「他人の目でものを見る」経験としての鑑賞の魅力を最大限に引き出すやり方

③障害は個人ではなく社会の側にあるという考え方

  • 従来は、障害は個人に属するものだと考えられてきた
  • 新しい考え方では、障害の原因は社会の側にあるとされる
  • 見えないこと自体が障害なのではなく、見えないことによって何かができなくなる、そのことが障害だとされている

【視点の変化】

①感覚は器官ごとに固定されていないという気づき

  • 点字を読む行為は、純粋な触覚の働きというより、見える人が目を使ってしている「読む」という行為に近いのではないか、という指摘にハッとした
  • これまで自分は、目は見るもの、耳は聞くものと、どこかで決めつけて考えていたのだと気づいた
  • わたしも普段、耳で聞いた音から情景を思い描くようなことを無意識にしているのかもしれないと気づき、感覚の使い方そのものをもっと意識してみようと思った

②善意がかえって壁になるという視点

  • 本書を読む前は、健常者の善意が障害者との間に壁を作ってしまうことがあるという発想を持っていなかった
  • 相手のことがよくわからないからこそ先回りして過剰に配慮してしまうという指摘を読んで、確かにそうかもしれないと思った
  • 良かれと思ってしていることが、実は相手との距離を作っているかもしれないと気づかされた

【感想】

わたしはこれまで障害者とほとんど関わりを持たずに生きてきた。考えてみると、学校や仕事、日常生活でも出会ったことがほとんどない。本書を読むまで、それを意識したことも不思議に思ったこともなかったなと思う。身近にいなければ、知るきっかけがないし、深く考えることもない。本書に出会ってはじめて、わたしは目の見えない人や障害者との関わりについて考える時間を持てた気がする。

子どもたちが通っていた小学校に、片方の耳が聞こえない先生がいた。担任を持ってもらったことはないけれど、地区の担当をされていたので懇談会で顔を合わせたことが何度かある。その先生は年度が変わるたび、必ず最初に自分の障害について説明されていた。補聴器をつけていること、後ろから声をかけられると気づかないことがあること。数年間関わったなかで、コミュニケーションで困ったことは一度もなかったと思う。あるとき、先生が補聴器を新調しているのに気づき、思わず「先生、ピンクの補聴器、とっても可愛いですね!」と声をかけてしまったことがある。声をかけてすぐに、補聴器を可愛いと言ってもよかったのだろうか?不躾なことを言ってしまったのではないか?と後悔した。先生は一瞬びっくりしたあと、とびきりの笑顔で「嬉しい!そんなふうに言ってもらえてすごく嬉しいです。ありがとうございます。可愛いでしょ?」と言ってくれた。

もちろん、先生のように受け止めてくれる人ばかりではないかもしれない。気を悪くする人がいたっておかしくない。でもそれって、別に障害のあるなしとは関係のない、人と人の話だなと思う。本書を読んでひさしぶりに先生のことを思い出して会いたくなったし、そのときのことを振り返るきっかけにもなった。思わぬプレゼントをもらったような気持ちだ。