バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学

バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学

2026年5月21日

【タイトル】

『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』朱喜哲,NHK出版,2026

【テーマ】

分極化が進み、「正しさ」がSNS上で衝突し合う現代において、客観的な真理や共通の根拠がないなかで、いかに他者と語り合い、共に生きることができるか。ローティの思想を手がかりに読み解く。

【なぜこの本を読んだか】

NHK『100分de名著』で朱喜哲さんがローティの『偶然性・アイロニー・連帯』を解説されていた回に興味を持ちながら、見逃してしまっていた。今回、そのテキストをベースにした新書が出ると知り、ぜひ読みたいと思った。

【学んだこと】

  • 会話を守るということ:ローティは西洋哲学を真正面から否定・批判した人物であり、哲学とは「人類の会話」が途絶えないよう守るための学問だと考えた。正しい言葉を示すのではなく、言い換えを増やしてさまざまな言葉が共存する状況を守ることが「会話を守る」ということ
  • 偶然性:人間に本質があるという考え方自体が間違っており、言語も人も社会も偶然の産物にすぎない。だからこそどんなことばづかいをするかによって有機的に変化していく可能性がある
  • ことばづかい(振る舞いも含む)にこだわることを「文化政治」と呼び、哲学は文化政治を探究すべきだとローティは考えた
  • 自分が正しいと信じて使う言葉(終極の語彙)を疑い、自由に改訂していける人をアイロニストと呼ぶ
  • 公私の分離:公的なものと私的なものは一見矛盾しているようでも一人の人間のなかに共存しうる。統合すべきではなく、場に合わせて使い分けることが大事で、その理想像が「リベラル・アイロニスト」だとローティは考えた
  • ルワンダのジェノサイドのように、言葉が暴力や殺人の引き金になりうる
  • 人権は大事な概念だが、人間を本質とすると非人間とされた者への残虐さが増し、機能しなくなる
  • 連帯:連帯とは「われわれ」と名指す対象を広げていくこと。残酷さを減らすという公共の目的のために手を携えることがリベラル・アイロニストの在り方
  • アイデンティティ・ポリティクスを使わざるを得ない場面はあるが、相手を黙らせ会話を打ち切る機能を持つことに注意が必要
  • わたしたちはなんらかのマジョリティ側に立っているのだから、マジョリティ性の責任を受け止めつつ、マイノリティ性からの異議申し立てにも開かれていることが重要
  • 正しさを乗りこなすために必要なのは、言葉をしっかり区別すること

【視点の変化】

  • 「連帯」というと、同じ主義主張の人と手を繋ぎ力を合わせることというイメージがあって苦手だったが、違う考えのまま「われわれ」の対象を広げていくことだと知って印象が変わった
  • 何かを本質と考えることで、それ以外のものを排除する可能性が出てくることに気づいた
  • 異なる者たちが異なったままで連帯していくためには、振る舞いを含めた言葉づかいについて自分に問い続け、反省を繰り返し改訂に開くこと、それをし続けることが必要だと思うようになった

【感想】

わたしは、普段利用しているSNSでさまざまな言葉をミュートしている。暴力的な言葉、性的な言葉、嫌いな言葉、なんとなく今は見たくない言葉。わたしにとって、それらを見なくて済むミュート機能は、SNSを利用するうえでなくてはならない安全装置だ。

たとえば、わたしが登録しているミュートワードのひとつに「おじさん」がある。誤解のないように言っておくと、その理由は「おじさん」という言葉そのものや、「おじさん」と名指される人たちが嫌いだからではない。権威主義的な男性や彼らの振る舞いを「おじさん」という言葉を使ってバカにしたり、罵ったりするのを見るのが苦手なのだ。内容に共感できないわけじゃないし、同じように「嫌だな」「クソだな」と感じる場面もたくさんあるけれど、正しさを盾にして誰かを批判する(個人ではなく「おじさん」という言葉でひとくくりにして)のを見るのが、どうしようもなくつらくて苦しい。しかし、だからといってこれまで表に出せなかったつらさを言葉にする人や、声をあげる行為そのものを否定したいわけじゃない。わたしがしたくないことをしたい人がいるのは当然だし、そもそも良し悪しの話じゃないと思うから。ただただ、そのことにおいて、考え方や感じ方、振る舞い方が違うだけ。そう考えた結果、わたしはブロックではなくミュートを選ぶようになった。

この本を読んでいる途中、かたく握りしめていた手がゆるんでいくような感覚をおぼえた。正確に言うと、ゆるんでいくのを感じて、かたく握りしめていたことに気づいた。そして最後まで読み終わったとき、今度は胸がいっぱいになって、少し泣きそうになってしまった。なんていうんだろうな、これまで自分のなかでぼんやりと思い描いていたことに名前がついて、少しずつ手触りを感じられるようになったというか。もしかすると、SNSはわたしにとってバザールだけど、他の誰かにとってはクラブなのかもしれない。そして、苦手な言葉を使う人をブロックするのではなく(もちろん、ブロックを全く使わないわけではないけれど)、言葉をミュートするのは、「われわれ」を狭めないためのギリギリの抵抗なのかもしれないと思ったら、これまで抱いてきたモヤモヤが少し晴れた。

自分を書き換えていくことにオープンであること、他人の話に耳を傾け知ろうとすること、そして会話を続けること。お互いに別々のままで、社会の残酷さを減らすために手をつなぐこと。これからも折にふれて読み返しながら、わたしなりのやり方で「われわれ」を拡張していこうと思う。